「お願いだ、俺が死ぬまで離れないでくれ。」
 俺が荒い息ですがりつくと、ラナンシーは困った様に優しく微笑んだ。
「君がいてくれたから、俺はここまでこれたんだ。」
 ラナンシーの白い腕を伝って手をとり、俺の胸に置かせた。
 だが、ラナンシーは優しく俺に口付けをして、そっとこの手を振り解いた。
 これが彼女との最後の口付けになった。


「先生、今回の作品『愚かしい私と乙女』執筆のきっかけになったのは、ある女性との出会いと言う話は、本当なんですか?」
 若いインタビュアーの女が台本通りの台詞を並べる。
「ええ、彼女との生活は作品の通り。俺は彼女を「ラナンシー」と呼んでいました。」
「アイルランドの妖精ですね。詩人に優れた才能を与えると言われる・・・。」
 インタビュアーは言葉を選んで俺を上目遣いに見た。
 目の前の女はそれほど美しい女ではない。「どこにでもいる女」。かえってそれが親近感を沸かせるのかもしれなかった。
「彼女は正に妖精といった感じの女でね。言葉をしゃべる事ができなかった。もしかしたら単に寡黙であっただけかもしれないけれど、
少なくとも俺は同棲した3年間、一度も声を聞いた事がなかったよ。ふふ、・・・あの時もね。」
 目の前の女は俺の最後の言葉に、少し面食らった様に顔を歪めて、そういうネタはなしの方向で、と小さく言った。
「俺がラナンシーと呼んでも嫌な顔一つしなかった。何しろ、名乗らなかったからね。本名はわからない。」
 俺はいつになく饒舌になっている自分に驚きながらも、更に続ける。
「とにかく美しい女だった。プロポーションも抜群でね。特に腰から尻にかけての曲線が美しかった。」
 俺はまるで中年親父が若い娘に行うセクシャルハラスメントの様に、手で尻の曲線をなぞってみたりして、目の前の女に明らかに不快感を与えていた。
 しかし俺はそれを止める事は出来なかった。
「色がとにかく白かった。それこそ小泉八雲の雪女の様にね。俺が贈った黒のキャミソールワンピースがとても似合っていた。」
 白い肌に映える黒のワンピース。思い出すだけで胸の高鳴りが押さえられない。
「作品、と言ったねあんた。それは彼女と過ごした日々の日記にほんの少しだけ手を加えたものなんだ。」
 俺の物言いに、女は更にひきつった作り笑いを浮かべる。
「彼女が俺に残した言葉、心、温もり、癒し。彼女が去った今ではもう何もない。」

「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
 インタビュアーの女が、神妙な面持ちで言ったので、俺は彼女の顔を正面から見つめた。
「なぜ、その女性にそう名づけたのですか?」
 ふっ、と俺は笑って彼女の顔を見た。彼女は不審そうに俺の顔を窺う。
「それは・・・。」
 先を言おうとして、俺は喉からこみ上げる物をこらえきれずにそのままインタビュアーと俺の間にあった机の上にぶちまけた。
 赤黒い血の塊だった。一気に周りが騒然となる。
「先生、先生?・・・救急車を呼んで!急いで!」
 女が慌しく、半狂乱で回りにいる人間に指示を出す。その余りの騒々しさに、何事かと人が集まってくる。
 ラナンシーとは、詩人に霊感を与える代わりに、精気を吸い取る美しい妖精。
 俺の身体はもう病魔に侵され、取り返しのつかない所まできていた。
 俺はもう諦めて、ぼんやりと彼女の事を想いながら集まってきた野次馬の列を見た。
 そして血のあふれる喉でなければ恐らくは叫んでいただろう、野次馬に二人の人影を見つけてしまった。
 げっそりとやせて蒼白な顔の不健康そうな男と、その隣に白く美しい微笑を漂わせたラナンシーを。
 ラナンシーは嘲っている様な、哀れんでいる様な微笑を俺に向け、バイバイと手を振った。
 

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