「お母さん、昨日駅の近くで野良犬見たよ。」
 ふと、私は台所で夕食の準備をする母にこう切り出した。
 特に理由があったわけではない。
 最近は余り犬を捨てる人間がいないのか、それとも保健所の管理が行き届いているのか、野良犬を見かけない。
 テレビのバラエティ番組もつまらないので母子家庭の一家団欒を、と特別に思い至ったわけでもないが、暇を持て余す程卓越した人生観は持っていなかった。
「大きいの?」
 トントンと包丁がまな板の上で踊る音の合間に、母の声が聞こえる。
「これくらい?中型犬じゃないかな。雑種ぽかったよ。」
 私が両手で犬の大きさを表してみても、母は振り向いて確認しない。
「犬ほしーなー。」
「駄目よ、あんたろくに面倒見ないでしょ。」
 母はぴしゃりと即座にそれを拒絶した。
 私がペットをねだるといつもこう返ってくる。私もそれをわかって言っているので、別に何とも思わなかった。

 私が最後に動物を飼ったのは、小学生の1年の事である。
 犬。ウェルシュテリア。長い鼻に、まるで黒い口ひげを生やしているかのような愛嬌のある顔立ちだった。
 もちろん私はその世話の大半を…否、ほとんどまったくを両親に任せっきりにしていた。
 ウェルシュテリアのガスパールは、父が私の小学校の入学祝いに買って来てくれたものだった。
 仕事仕事でろくに家にいなかった父が、私がテレビを見ながらぼそりと「犬が欲しい」と言ったのを目ざとく聞き逃さなかったのよ、と母は今でも笑って言う。
 ガスパールの散歩中にトラックにはねられて死んだ父の記憶を、私はそれほど持っていない。
 遺影の父の顔は、NHKの体操のお兄さんの様に、不自然に爽やかなのでちょっと癪に障る。
 母がよく「お父さんはもてたけど、並みいる恋人候補の中から私を選んで結婚したのよ。」と自慢げに言うのがどうにも胡散臭いのだ。
「父親がいる生活」というのは一体どういうものなのだろうか。ぼんやりと考える。
 決して母親との二人だけの生活に不満を持っているわけではない。

「真美子、算数の問三、あれできた?」
「いや、ムリ、ムリ!あほかっつの。あれホントに小6向けか??なんだあの問題!!」
 ワンピースの裾を翻して真美子は薄闇を照らす自動販売機の横を通る。
「明日学校の先生に聞かない?」
「でもさー、塾であんま進んだとこやってると、印象悪くしそーじゃない??」
「あー。…それはあるかも(笑)」
 他愛ない話題。塾帰りの女二人。
「じゃ、また明日。」「うん、学校でね。」
 真美子とはとても仲がいい。真美子の事はとても好きだ。だけど、やっぱり少し恨めしく思う事がある。
 父親が居れば。
 ずっと母さんは家に居て、ほしい物をなんでも買ってくれて、休日に三人で遊園地とか遊びに行ったり。
 はあ、と無駄な夢想にため息をついた時、ふいに目の前の電柱から人影が転がり出てきた。
 薄暗くてよくは見えないが、私の背丈の軽く倍はあるだろう。段々近づいてくる。
「ね、ねえお譲ちゃん…塾の帰りかい?お腹すいてない?」
 顔の半分以上を覆う白いマスクの下からハー、ハーッと荒い鼻息が耳につく。
「え、あ、あの、あ、私、急いでる…から…!」
 変質者だ!見れば真っ黒のパーカーに裾のしぼられたオジサンジャージを着込んだ頭のはげかかった中年親父が一人。
 狭い裏道。男の横をすり抜けるのは危険だ。慌てて来た道を返そうとする私の右腕を、男が掴んだ。
「ん?急いでるの?こんな時間までぶらぶらしてて、急いでるって言うのかい?ちょっとおじさんとお話しよう?」
 防犯ブザー!ああ、鞄のポケットだ!左手だけじゃ、取り出せないっ
「離して!」
 体をひねって逃れようとしても、男の力は思いの他強い。
 ぐいと引き寄せられればほとんど抱きかかえられてしまった形になる。
 すっぱい体臭が鼻を、ハー、ハーッという息苦しささえ感じる不快な呼吸音が耳を刺激し、いやおうなしに泣き出しそうになる。
「やだっ、離して!」
 暴れる私を男が持ち上げた時、わんっ、と犬の吠える声が聞こえた。
「な、なんだコイツ!」
 地面から離れた足が振り落とされる。
 私は尻餅をついてぽかんと男に飛び掛っていくウェルシュテリアを見ていた。
 男は払っても払っても噛み付いてくる犬に奇声を発しながら応戦しようとしているようだった。
 ふわっと、頭をなでられたような気がした。
 はっとして頭上を仰ぎ見ても、そこにはぼんやりと淡い光を放つ月が鎮座しているだけだった。
「あ、あ、あああああああああっっ!!!!くそ!」
 男はまるで獣の唸り声のような声を上げて、私の方なぞ一度も見ずに駆け出していった。
 わんわんわん、とウェルシュテリアは1、2m追いかけてから、男が完全に去ったのを確認すると、これまた私の方は振り向きもせずに暗い路地裏の方へ駆け出していった。
「・・・・・・えーと・・・」
 余りの出来事に私は何だか事態がうま飲み込めずまだ尻餅をついたまますでに誰もいなくなった虚空を眺めていた。
 いつまでこうしていたのだろうか、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
 顔を上げてみれば、母がサンダル姿でかけてきた。
「お母さん?!」
「大丈夫?!怪我してない?!」
 ぐいと腕を引き上げられ、私のお尻の汚れをはらい、体中をくまなくチェックする。
「お父さんの声が…危ないって…。」
 私を抱きしめる母の声が心なしか涙声な気がする。
「うん、ガスパールが助けてくれたから…大丈夫…。」
 いつの間にか、私の目からも大粒の涙が流れていた。
 

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