手の中で淡い朱色を発する毛糸の玉を見つめる。
先程まではその糸が、少しずつ目の前の迷宮へと引っ張られていたが、今はその動きもない。
今すぐにでもこの糸を追って、テセウスを追いかけていきたい衝動に駆られる。
テセウスは、もうあの子のいる場所まで辿り着いたのだろうか。
恐ろしい狂気に取り付かれたあの子の喉を、腕を、脚を、首を、腹を、引き裂いている最中かもしれなかった。
アテナイから取り寄せられた生け贄の少年少女達に混じって現れたテセウスの瞳は、復讐の炎が燃えていた。
「お願いよセテウス。アステリオスを助けて。あの子を殺さないで。」
何て無謀な願いなのだろう。すがり付いた復讐者に、素早くしかし優しくこの腕を払いのけられ私は悟る。
例えばこの糸を燃やして、セテウスをこの迷宮に閉じ込めてしまえばどうだろう。
正義に満ちた剣であの子を葬り去るだろうセテウスを許す事を、私自身に許されずに彼を苦しめればいいのだろうか?
「姉さん、僕を哀れに思うのなら、どうか苦しまない様に殺してほしいんだ。」
幼い弟がこんな事を言った。
何を馬鹿な事を、そんな事を言って私を苦しめないで。
弟の横顔を見つめていると、神に呪われたこの子の進む道に光が灯る様にと、ただ願うしかない私に落胆する。
まだあどけないあの顔で、生け贄をなぎ払い、叩き潰し、噛み砕いている様を、到底直視は出来なかった。
いつから私はあの子の顔を見ていないのだろうか?
ついに父は手をつけられなくなったあの子に、母が纏った牛の皮を無理やり被せて、迷宮へと追放してしまった。
「泣いているのか?」
いつの間にか、目の前には朱色の糸の逆端を持つセテウスが立っていた。
私は恐る恐る俯いていた顔を上げ、いいえと呟いた。
後ろにはセテウスと共に迷宮に入った数名の男女が続いていた。
その顔は恐怖と疲労にひきつり、とてもうら若い少年少女達である様には見えない。
とさ、とセテウスが糸を持つのとは逆手に持っていた牛の頭を地面に捨てた。
首元にこびりついた鮮血に、私はぎくりとしてセテウスをもう一度見た。
彼が腰のベルトに挿した剣は、赤黒い血液がべっとりとついていた。
その身体の至る所にも、セテウス自身の物かそれとも返り血なのだろうか、鼻をつく異臭を放つ赤色がこびり付いている。
セテウスの表情は、先程迷宮に入っていった時とはまるで違い、実年齢のそれに近い、少年の様な幼さを漂わせていた。
正義と復讐に燃えた殺戮者の影は、微塵も感じられなかった。
「アステリオス・・・。」
私は血で服が汚れる事にもかまわずに、アステリオスの首に手をかけた。
例え死に顔だとしても、あの幼い顔をもう一度見ておきたかった。
しかし、牛の頭はがらんどうになっており、中に弟の首は納まっていなかった。
「弟の首は・・・?」
「ミノスの牛は、この俺が退治した。」
問う私に、自らに言い聞かせる様にセテウスが呟いた。
「私を、ここではないどこかへ連れて行ってくれる?」
私が精一杯の笑顔をセテウスに向けて言うと、彼は少年の様に白い歯を見せて笑い、
「君が望む場所まで連れて行こう。」と言った。
弟は、迷宮の奥底でひっそりと、誰の目にも触れられずに果てているのだろうか。
・・・それとも?
私は故郷を仰ぎ見、誰にも愛されなかった愛しい弟を想い、ひっそりと涙を流して別れを告げた。
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