2:纏有久
 僕の名前は纏有久(マトイ アリヒサ)。

 僕には何も無い。僕は何も持たない。僕は何も見ない。僕は何にも触れないし、何にだって感じない。
 僕には食事も必要ないし、排便だって行わない。風呂に入らずとも汚れないし、眠らずともどうって事もない。
 僕が鍵師だからだ。鍵師は何にも干渉されない。例えそれが世界の理であろうとも。
 僕が鍵師になったのは、今から13年前、六歳の誕生日の事であった。別に望んだ事では無い。
「鍵師」それはこの国の平和の象徴。隆盛の証。
 鍵師になる為に特別な資格は必要無い。
 頭が良かったり、背が高かったり、手先が器用だったりしなくてもいいし、流暢に話す事が出来なくても構わない。
 何故なら、鍵師と言う位に就いた人間は、何もしなくていいからだ。
 もっと言えば、何もしてはならない。それが鍵師。
 僕は何も無い部屋にいる。鍵師の間と呼ばれる僕の為の、何も存在しない部屋だ。
 淡いパステルブルーの壁紙に囲まれた人一人が寝転べる程度のサイズの正方形の部屋。
 強化ガラスが何重にも張り巡らされた小さな天窓から、ぼやけた明かりが僕に降り注ぐ。
 扉は一つ。小さな小窓がちょうど僕の頭の高さに一つだけ。
 だけど、内側にはドアノブも鍵穴もない。外から開けるのにも何百桁ものパスワードを入力しなければならない。
 この扉の外は僕の唯一の外界との接点、侍女の刀道祥子(トウドウ ショウコ)さんの部屋。
 祥子さんは僕の侍女と言う役職に就いているが、僕は鍵師の間から出る事は出来ないし、また誰かを鍵師の間に入れる事も出来ないので、彼女は僕の話し相手と言う事で、壁一枚隔てたその部屋で、常に僕と一緒に居てくれるのだ。
 きっと祥子さんとたかしが居なかったら、僕は孤独と虚無感に押しつぶされていただろう。
 たかしは僕の数少ない鍵師以前からの知り合いで、幼馴染み。
 たかしは僕の為に外の世界の話をしに祥子さんの部屋まで毎日やって来てくれる。
 たかしの話す世界が僕の世界の全てである。
 ただ、時折ぼんやりと不思議な白昼夢を見る事がある。
 蟻の様に小さな人間達が白と灰色のストライプの上をせわしなく行き来する。
 僕はそれをずっと上の方から眺めている。
 空はまるで絵の具をたらしたかの様な、雲一つ無い濃いスカイブルー。
 僕は奇妙な乗り物に揺られ、ゆったりとしかし確実に空を遊覧している。
 彼女が子供の様にはしゃぎながら、外の風景をあれやこれやと僕に話しかけている。
 右へ左へと彼女が移動する度に、不安定なこの乗り物はぎこぎことぎこちない音を上げて揺れるのが少し怖い。
 彼女は何を言っているのだろうか。彼女が指差した風景は霞んでいて、僕にはそれが何なのか理解出来ない。
 これは幻覚だろう。
 いつも僕は彼女の顔を見ようと目を凝らすのだが、そうしてしまうと見えるのはパステルブルーの壁紙。
 手を伸ばしても触れるのは、冷え冷えとしたその役目を果たす事の無い、開かれる事の無い扉。
 僕は・・・。

「有久くん、今日はいい天気よ。」
 ふいに思考を遮ったのは祥子さんの声。
 頭上を見上げても、天窓は外の風景を覗かせはしないので、僕はきっと空はあの白昼夢の様な色なのだろうと想像するだけに終わる。
「今日は何を読もうかしら?」
 祥子さんの鈴の音の様な透き通った声が僕に問いかける。
 僕は部屋の中央で棒立ちだった体を冷えた扉に預け、
「昨日の続きを聞かせて下さい。」と短く言った。
「そう言うと思ってたわ。」
 椅子の足が軋み、彼女がその椅子に腰掛ける音がした後、本のページを捲る音が続く。
 たかしが祥子さんの部屋に来て、僕に色々と話を聞かせてくれるとき以外は大抵は祥子さんに本を読んでもらっている。
 本はほとんど祥子さんにチョイスして貰っており、昨日から柳田国男の遠野物語を読んで貰っていた。もちろん、現代訳版ではあるが。
 遠野の風景は僕にはとても想像しきれない。
 いや、遠野の風景だけではない。この世界の風景だって僕には思い出す事は出来ない。
 幼い頃の、ずっと昔の記憶の中にあるだけで、それは到底リアルな景色とは程遠い。
 祥子さんの凛とした声を聞きながら、僕は頭の中で緑豊かな遠野の森を旅していた。



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